毒ママを選んで生まれてきたらこうなった

生まれる前と胎内記憶のある毒母第3世代なつみ

癌になり母の怖さを思い知る  

なつみ@毒母第3世代です。
20代後半で乳がんが見つかり手術することになりました。
経緯は↓

相談どころか、病院への付き添いすらなかった、なんて毒親あるある・・。

一人で悩み、決断。診断と術後は『お一人様』でよかったけれど、手術は緊急事態に備えて付き添いが必要でした。
母との関係はさほど悪くはなかった(洗脳が解けてなかった)頃です。
むしろ持病で臥せっている母を元気づけたり、健康のためプールに誘っては、続くように励ましたり。
それがきっかけで水泳を始めた母は、新しい友人と食事に行くなど楽しい日々を過ごしていました。
今思うに、幼児に習い事をさせようと、おだてたりノセてみたり・・そっくりです。
そんな母に手術の付き添いを頼んだら、断られました
理由は「お金を払いたくない」から。
「私のお財布を預けておくよ」と言っても
「子どもの財布から払ってるの見られたら体裁が悪い」と。
「誰の財布かなんて分からないよ」と言っても
「なぜアンタのためにそんな事しなくちゃならないの!」とヒステリックに怒るばかり。
私が母の健康のために時間労力心を砕いてきたことは、すっかり・・これまた幼児並みに忘れたようで悲しくなりました。
支払いどうこうではなく、手術とは命がけなわけで・・もしもの時のために付き添いが必要なのですが。
夫と実父にも医療ネグレクト

手術部位が乳房なので父にも兄弟にも頼めず一人で病院に行くと、急遽キャンセルとなりました。
医師が事情を知り「お金?娘なのに?そんな人初めてだ。お母さんはどうかしてる!」
とすぐさま自宅に電話して母を説得するという強行に。
看護師に
「先生は分刻みのスケジュール。電話だなんて先生の仕事じゃないの。それを今あなたのために時間を割いてます」と責められました。
県外からも執刀医が来ていたので、二人の医師(と看護師ら)に大変な迷惑をかけてしまいました。
もう手遅れになっても仕方ないか・・
あきらめと同時に、ただただ申し訳なくうなだれるだけでした。
先生に「若い人は進行が速い。次までの手術が命取りになるかもしれない。しっかりしろ。まだ間に合うんだ。乳がんは切れば予後はいい。生きたいのに助けられなかった人達もいる。君は生きるんだ
と叱咤されてはっとしました。
母が言ってはくれなかった言葉。
生きろ」って?。
私、生きてもいいんですね

こんなこともありました↓2か月先の予定も詰まっている先生が、どうにか工面して約2週間後に手術をしてくれることになり、しぶしぶ付き添った母。
術中術後、退屈だから・・といって病院近くのショッピングセンターへお買い物に。(おいおい何かあったらどうすんだ?)
一日病院で過ごした後、母の車で帰宅しましたが、先生に電話で叱られたからか機嫌の悪いことこの上ない。
いつもに増して意地が悪いのでした。
帰宅した途端、リビングで寛ぐ父と弟に
「帰ったよ!今なつみが乳(ちち)、切ってきたよ!」と大声をあげ愉快そう笑ったのです。
父は驚いて私の元に駆け寄って「だいじょうぶか」と絞り出すように言ったきり固まっていましたが、後にも非常に心配してくれているのがよくわかりました。
しかし
母は相変わらず冷酷でした。
食事は大事だから、添加物まみれの食事や菓子を残すと
「スキキライするから癌になるんだ」となじり罵りました。
健康に良いと聞いて試すたびに、「癌のくせに」と笑いました。
自分の信念を貫きました

神頼みもしました

むやみに他人に話したりも平気でしていました。
また
母方親族らと温泉に連れて行かれ傷口をさらす羽目になりました。
嫌だと何度も拒否したのに許されませんでした。
母はただ、「見たかった」のだと思います。
毒母の好奇心は、娘が傷つこうが他人の目にさらされ屈辱を感じようが、とどまることを知りません。
恐るべし毒母
ストレス由来と知ったのは、この本のお陰。