毒ママを選んで生まれてきたらこうなった

生まれる前と胎内記憶のある毒母第3世代なつみ

20 毒母育ち 中卒で働いた 1

初めから受かる高校を受験すればよかったのですが、毒母育ちには選択肢がなかったのでこんな目に遭いました。
毒母自己満足度ナンバー1進学校。しかも1択
母は都合の悪いことをすべて私のせいにしていたため、父によく叱られていました。
母の嘘を鵜呑みにしてしまうくらい、母は口が本当にうまいのです。
母は家族のいないときを見計い、私に助け舟を求めます。
「私がいうと怒られるから、なつみが言ったってことにして。なつみだとアイツ(父)が怒らないから」
そういうときだけ、「あなたが頼りなの」と優しくしてくれます。
だから「いいよ」というしかなかったです。

ある日、そんな積み重ねと不幸な事件が、父を本気で怒らせてしまいました。
私は殴られ、投げ飛ばされ、髪をつかんで庭を引きずられました。
真夜中、抜け落ちた髪と泥だらけ血まみれのパジャマ姿のまま近くの畑で震えていました。
翌日、家族みんな何もなかったようにいつもの日常に戻っていました。
私は制服に着替え、いつも通り中学に登校しました。
母はそんな体も心も傷だらけの私にこういいました。
「しんきくさい顔しやがって」
さらに、大好きだった叔母から引き離されました。
週3日、叔母が主宰する習い事を強制的に止めさせられたのです。
私の世界一嫌いな人だから」という毒ツルのひと声で。
情緒不安定になりました。
とても高校受験などできる精神状態ではなくなりました。
中学校へ行くのさえつらいのですが、家に居場所がないので仕方ありません。
そんな中の受験。
望まぬ進路だったので、不合格という結果はむなしかったけど「これでひと仕事終えた」的な気持ちで、ほっとしたのを覚えています。

「よその家に嫁ぐ人間(なつみ)に一円も使いたくない」がスタンスの母の望みは、私の結婚相手に今後の生活費を出してもらうことでした。
高校の授業料は(未来の)旦那にだしてもらえ、と。
結婚相手がいないのに無理な話です。
時は1980年代後半。
テレビ界はアイドル全盛期で、明菜ちゃん、聖子ちゃん、チェッカーズなどに夢中になるお年頃。そんな15歳に結婚て・・・。

受験勉強よりも内職して(2枚貼って1円を稼ぐシール貼りとか)小銭を稼いでいた中学時代も終わり、スーパーの総菜屋2店でバイトをやることに。
店は時給500円。Bはお昼の賄付きで時給460円。
初めのうちは見習いだからと、もっと少なかったです。
中卒なので正社員にはなれず、ただのバイト。
店長は優しい人でしたが、Bは今でいうブラックでした。
B店長の奥様もたまに手伝いに来ていましたが、要領の悪い人で、失敗ばかり。
その失敗で私がいつも叱られていました。
が、奥様は知らん顔。
言い訳すると、店長は「中卒人のせいにするな」といっそう私を叱りつけました。 中卒は言い訳する権利すらない・・・。
家で母の言いなりになり、外でも同じ。
稼いだお金で、専門学校に行って、もう少しいい職業に就きたいと15才のなつみは考えるようになりました。
弟は、「不合格だなんてみっともない。俺がをかく。俺の前に現れるな」こんな感じでした。
学校で、親子面談があったのですが、父は仕事、母は暇なのに拒否
が父兄として来てくれました。
その召集プリントに『ご父兄の皆様へ』とあるのを見て、兄は無邪気に「ほら、見て。兄でもいいんだ。俺が行くよ!」と。
兄の優しさが、どれだけ嬉しかったことでしょう。
この時のことを思い出すと、ありがたくてありがたくて・・・。
家族で、普通に接してくれていたのは兄だけでした。

余談ですが、天国で魂が繋がっていた、というだけで、こんなにも違うんだなあと感じてました。参考↓兄とは繋がっていたが(2)弟とは繋がりはなかった話(9)近所の人が、「なつみちゃんが可哀そう」って同情してくれるのですが、母は「ウチにはお金がない」の一点張り。私が一人の時を見計らって、「どうして皆がアンタの味方するのかわからない!腹が立つ!」といつもイライラ。
私が同情されればされるほど、母から意地悪をされました。
だから対外的には、努めて明るくを装うようにしていました。
同情するなら金をくれ」ってTVありましたよね。そんな感じ。
同情なんて・・・むしろ私には、不利な状況にしかならなかったです。
毒母って、学校のいじめっ子と同じですからね!
家よりもブラックB店の方が、少ないけど時給とご飯もらえる分まだマシな感じでした。
続きは↓